2022年7月 本/言葉2

「記憶というのは、思い出されるごとに独自のものになるんだ。絶対的じゃない。実際の出来事をもとにした話は、しばしば事実よりも創作と重なるところが大きい。創作も記憶も、思い出され、語りなおされる。どっちも話の一形態だ。話という手段を介して、人は知る。話という手段を介して、たがいを理解する。だけど現実は一度きりしか起こらない」

「それで、どんなふうに終わったの?」わたしは言う。「前の彼女とは」

「ろくにはじまってもいなかった」彼は言う。「たいした付き合いじゃなかったし、一時のことだった。」

「でも、そう思って付き合いはじめたわけじゃないでしょう?」

「付き合いはじめたときも、終わったときに劣らず真剣じゃなかった」

「なんで長つづきしなかったの?」

「本物じゃなかった」

「どうしてわかるの?」

「わかるものはわかる」彼は言う。

「でも、本物の付き合いに発展したときには、どうしたらわかる?」

「一般的な話?それとも具体的に当時のこと?」

「当時のこと」

「相手に依存するところがなかった。依存があるということは真剣だということだ」

 

イアン・リード (坂本あおい)『もう終わりにしよう。』早川書房 2020年

 

 大変不思議な章タイトルと思われたかもしれないが、ここでは良い訳とは何かということを考えてみたい。いうまでもなく、非の打ちどころのない理想的な訳というのは、まず原文が伝えようとすることがらを余すところなく正確に伝えているということが大切である。そのうえで翻訳ならば、もともと訳文で書かれたかのような自然な整ったものに仕上がっている。通訳ならば、もともと訳語で述べられたかのような自然な無理のない発言になっていて耳障りではない、それを私たちはいい訳というふうに判断している。

 さて、この原文に忠実かどうか、原発言を正確に伝えているかどうかという座標軸を、貞淑度をはかるものとし、原文を誤って伝えている、あるいは、原文を裏切っているというような場合には不実というふうに考える。そして訳文のよさ、訳文がどれほど整っているか、響きがいいかということを、女性の容貌にたとえて、整っている場合は、美女、いかにも翻訳的なぎこちない訳文である場合には醜女というふうに分類すると、この組み合わせは四通りある。「貞淑な美女」、「不実な美女」、「貞淑な醜女」、「不実な醜女」の四通り。

(中略)

 しかし考えてみると、訳文が女の容貌や男に対する忠誠度にたとえられるのは、これはヨーロッパの伝統なのだが、少々癪である。中村保夫氏著作『翻訳の技術』(中公新書)によると、これはイタリア・ルネサンスの格言「翻訳は女に似ている。忠実なときは糠味噌くさく、美しいときには不実である」に由来するし、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)によれば、十七世紀のフランスで訳文の美しさで人気の高かったペロー・ダブランクールの翻訳を大学者のメナージュが評して、「私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった」と述べたことに始まるらしい。この時以来Belles In-fideles(不実な美女)というフランス語は、「美しいが、原文に忠実でない翻訳」を指して用いられるようになったということだ。

 まあ、いずれにせよ、比喩とはいえ、容貌と貞淑度を問題にされるのが女ばかりであるのは癪である。これを男に置き換えられないものかと、「貞淑」」に該当する、男を修飾する形容詞を探したところ、見当たらない。せいぜい「誠実な二枚目」、「誠実な醜男」、「不実な二枚目」、「不実な醜男」というふうな、締まりのない四通りの置き換えで我慢するしかないのだろうか。

 この言い方のインパクトの弱さは、一般的に女が、男のように相手の容貌にも、自分に対する忠誠度にも、大した重きを置いていないせいではないだろうか。はるかに現実的で欲張りな女は、単に「二枚目」であるだけでは満足せず、背丈も収入も学歴も高いことを望む。それを考えると、「浮気の絶えない三高男」と「あなた一筋の三低男」なんてのが妥当な線かもしれない。で、もちろん、こうなると、比喩としては不適当になってしまうのだ。

 

米原万里『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』新潮文庫 1997年